私が彼女と出会ったのは、まだほんの幼いころの話だ。その頃の私は家族のみならず、親戚中の愛と期待を一身に受けて暮らす男の子だった。かわいさもなかなかのもので、そこらの子供なぞ裸足で逃げ出すレベルだったと思う。だから尚の事、私のかわいさを一足どころか二足も三足も飛ばして先にいた彼女と出会った時のインパクトが忘れられないのだと思う。
母の実家に出かけた時のことだ。結構な山奥にある母の家は資産家だかなんだかよくわからないが、どうやら唸るほどの金を持っていて、家から見える山は全て手中に収めているとぶっ飛んだ噂が立つほどの大邸宅だった。後の祖父の話によると、「全てなどとんでもない! せいぜい八割がいいところだ」とのことだった。とんでもない話である。
その日は親戚が一同に会するイベントがあったらしく、私は早々にむくれていた。同年代の子供がおらず、構ってくれる大人が皆座敷に集ってしまい、することがなかったからだ。聞き耳を立ててもしんとしている。私は一人で庭に飛び出し、散策をすることにした。ただでさえ広い敷地だが、五つだか六つの私にはまるで宇宙のように広かった。
その宇宙の片隅に、孟宗竹の林があった。ご存知の方もいらっしゃるだろうが、竹林は雑木林よりも暗い。この竹は他の木とは比べ物にならないほど早く、長く伸び、上の方で葉を伸ばす。植物が生存競争に勝ち残るには日光をいかに多く浴びられるかが肝要だが、それに特化した結果と言える。私は竹林に足を踏み入れた。
薄暗い竹林を歩きながら、私の気分は高揚していた。それでなくても幼いころはいつでもテンションが高めであったと記憶している。これは私だけではないだろう。好奇心が暴れ回り、私も竹林で暴れまわった。そして、迷ったことに気付いた。
先にも書いたように、私は非情に愛らしい子供だった。愛らしい子供が同時に利発であるというのは、かの有名な竹取物語が書かれたと言われる平安時代より遥か以前から真理として定められており、私も多分に洩れず利発であった。利発らしさを十分に発揮した落ち着きを見せ、あたりを見回して、愛らしい顔を歪めて少しだけ大泣きした。だってそうだろう。薄暗い竹林は怖いのだ。
五分ほど泣いた頃だっただろうか。どこからかガサガサと落ち葉を踏み鳴らす音が聞こえた。私は縮み上がり、音の出処を探ろうとしたが固まってしまった体は動かない。
「どうして泣いているの?」
その声は上等な布が首筋を撫でた時に聞こえるような、滑らかで優しい声だった。あまりの優しさに、私の体は落ち着きを取り戻し、声の主を探して周囲を見渡した。
女の子だ。黒髪のおかっぱで、透き通るような白い肌にぱっちりした目をしていた。睫毛はまばたきをすると音が出そうなほど長く、色素の薄い瞳は私の心の中を覗いているような気がした。しかしその感覚は決して不快なものではなく、何故か暖かみを伴う不思議な感覚だった。
「どうして泣いているの?」
細い体から発せられる声は、優しさの底にしっかりとした土台を持ち、少女とは思えない完成された女性を思わせた。
「一人で遊んでいたら迷子になっちゃったんだ」
少女は微笑みを浮かべ、私に近づく。微かにいい香りがするが、何の匂いであるかは判断がつかない。お香でもなく、また少女特有の甘い香りでもない。
「なんだ、そんなことか。おいで、私が連れて行ってあげる」
差し出された右手を掴み、二人でゆっくりと家に帰った。
座敷で行われていた親戚の集いも終わったようで、障子戸は開き、各自がお茶を飲んだり煙草を吹かしたりして過ごしている。祖父が私達を見つけ私を呼ぶ。
「タケ、どこ行っとったんだ」
大きな声だが怒っている訳ではない。元々声が大きいのだ。体が大きく豪快な人で、笑い声も大きく、泣き声も大きい。酒に酔うと何が悲しいのか大声で泣くのだ。
「おお、お前も一緒だったか」
私の手を握っている女の子にも笑顔を見せ、それから小さく手招きした。
「皆の衆、これがさっき話をした子じゃ。ほれ、みんなに挨拶せい」
女の子は私の手を離して小走りに祖父の側に向かい、小さくお辞儀をした。
「こんにちは。私は、奈代と言います。よろしくお願いします」
それが、私と彼女の出会いだった。
彼女は孤児で、年は私の二つ上だった。両親を事故で亡くし、施設に入れられそうになったところを祖父が引き取ったらしい。どのような経緯で引き取ることになったのかはわからないが、祖父の笑顔をみていると、決して後ろ暗い理由ではないと思う。
幼い私は姉ができたように喜んだ。私は一人っ子で、祖父の家程ではないが田舎に住んでいる。学校も一学年で十人ばかりしかいない小さなものだ。純粋に友達が増えたようで嬉しかったのもある。その他の親戚連中がどう思ったのか、今となってはわからないが言い出したら聞かない祖父のいつものわがまま程度に思っていたのではないだろうか。彼女が当時の事を私に語ったことはない。だからそう信じる他ないのだ。
成長に伴い、彼女の不思議な美しさには磨きがかかっていた。初めて会った時に感じたイメージそのままに、まるで人形が生命を得たかのように人間離れした美しさだった。しかし性格の方は外見と全く反対で、男まさりで思い切りの良い、さばさばした物言いと行動だった。そして勉強ができて物覚えも早いのに、どこかちょっとバカだった。
中学生の頃だっただろうか。彼女は祖父の家の納屋からよく切れる鉈を持ち出し、私と出会ったあの竹林のから一本の竹を切り出して、大人の背丈よりも長い槍を作った。それを振り回していた。一体何をしているのかと尋ねると
「もしもの時のために体を鍛えているのよ。山奥だから警察もすぐには来られないしね」
と笑いながら答えた。私はなにか違うような気がしたが、そうかと言って見ていると彼女は予備の竹槍を私に寄越し、日が暮れるまで一緒に槍を振らされた。
またこんなこともあった。彼女が暮らしているのは山の中で、娯楽に乏しい。あるのは広大な山だけだ。学校までは車で送り迎えをしてもらっていたが、帰って来てからはすることがない。そこで祖父にねだってマウンテンバイクを手に入れた。山道を走り回るようになった。それだけでは物足りず、並みの男では尻込みするような急斜面を駆け下っていた。祖父は知っていたが、「元気で結構!」と笑っていた。
ある日、乗っていたマウンテンバイクの前輪が吹っ飛んだ。毎日毎日酷使されれば、金属だって疲労くらいする。そのまま投げ出された彼女は流れの緩い川に落ちたので幸い怪我はなかったが、落下地点から百メートルほど下流で畑仕事をしていた近所のお婆さんに発見された。ぷかぷかと流れてくる彼女に慌てて駆け寄り、どこか痛いのか、泳げないのか、大丈夫かと問い詰めるお婆さんに彼女は「火照った体に水が気持ちよかった」と答えて呆れさせた。
そんな彼女が祖父の納屋に埃を被っていたあれを見つけるのは必然だったのかもしれない。祖父が昔乗っていた、オフロードバイクだった。祖父はマウンテンバイクの時のように「乗るなら装備をきちんとしろよ!」と笑いながら言い、装備一式を買い与えた。彼女はまだ十五歳で免許がないが、土地は売るほどある。私有地は免許がなくても運転できるのだ。おもちゃとしてはぴったりだった。マウンテンバイクからオフロードバイクに乗り換えた彼女は、山の中を走るようになり、急坂を駆け下り、また駆け上がったりした。時々転んでぶっ飛んだり、そのまま川にぷかぷか浮かんだりした。
高校生になり、普通二輪免許を取った彼女は公道でもバイクに乗るようになった。どこから引っ張り出してきたのか、古いスポーツバイクに乗り通学に使っていた。一度後ろに乗せてもらったが、笑ってしまうくらいの加速に汗も凍るようなカーブ、初めてのことに驚くばかりだった。ミラー越しに見えた彼女は、微笑みながら前を見つめていた。
私も高校生になり、すぐにバイクの免許を取った。先輩からもらった125ccの小型バイクだったが、不満はなかった。小さいものは大きくする夢がある。楽しみは先に取っておくものである。彼女はスズキの古いGSX-R400Rというスポーツバイクに乗っていた。いつか新しいバイクを買うときに、彼女よりも大きなスズキのバイクを買って驚かせてやろう。そう思っていた。バイクという足ができ、行動範囲の広がった私はアルバイトにも精を出していた。いつか来るその時のために。
彼女とはたまに一緒に走り、乗り方を教えてもらったりした。
「タケが転んで怪我しちゃったら困るもんね」
そう言って笑っていた。いつもは遅い私の後ろを走ってくれるが、前を走る時、彼女は風だった。鋭い排気音をだけを残して、そのままどこかに飛んでいってしまう気がした。
彼女が高校を卒業して、大学に進学した年のことだった。祖父が急に体調を崩して入院したのだ。幸い大事には至らず、入院も一週間程度で済んだ。しかし、祖父ももういい年である。もしもということがあっては困る。特に困るのは彼女の身の振り方だ。大学生なのだから、一人で生きていけないということは断言できないが、両親もいない彼女には少し寂しすぎる。
ある日、親戚中の人間が祖父の家に呼ばれた。まるで幼い頃のあの日のようだった。みんなを座敷に集めた祖父は
「奈代を幸せにできる男を探して欲しい。儂の目の黒いうちに、婚約をさせようと思う」
強い意志のこもった声だった。私は、来る時が来たかという想いだった。姉弟のように仲良くしてきた。そして、いつかは彼女が嫁に行くこと、自分の気持ちを彼女に伝えられないこと、理解していた。理解はしていたが、胸が少し痛んだ。
慌てたのは探してくれと頼まれた人々である。美しく、また気立ても(男勝りだが)良いこの奈代に釣り合う男を探すのは大変だぞと口々に弱音を吐いた。名乗りを上げる男は多いものの、祖父の眼鏡にかなわない。
三ヶ月が経った頃、ようやく四人の男が出揃った。一流企業勤務や自ら事業を起こした者、そしてまだ三十路前の者達で、力がみなぎっている。容姿も優れていて、そのまま雑誌の表紙を飾れそうな四人だった。弟分ということだけで顔合わせの会に引っ張りだされた私は、このぶんなら誰を選んでも心配あるまいと思っていた。祖父も同じだっただろう。しかし彼女の突飛な提案で、安心は吹き飛んだ。
「私のためにと言ってはおこがましくもありますが、お集まり頂きありがとうございます。どの方も素晴らしい方ばかりで、どなたが優れていて、どなたが劣っているということはまずないでしょう。私には決めることができません。なので、私が欲しいと思っているものを頂けた方を選ぼうと思います」
何を言っているのだこのお転婆は。並んだ男性四人も驚いている。しかし、そこはさすがの男たちで、一人が口を開いた。
「わかりました。それなら遺恨もない。幸い私達は、あなたのある程度の望みなら叶えて差し上げられる者達ですし、またそれだけのことをしてもあなたを射止めたいと思っている」
「ありがとうございます。私がバイクというものが好きなのは、既にご存知かと思います。そこで、それぞれの方に一台ずつバイクを手に入れて頂きたいのです」
一同がごくりと唾を飲みこむ。
「ケビン・シュワンツ、エディ・ローソン、ワイン・ガードナー、ウェイン・レイニー。モーターサイクル史に名を連ねる彼らがロードレース世界選手権でワールドチャンピオンになった時に乗っていたバイクを手に入れて頂きたいのです」
全員が唖然とした。お金を出せば買えるものではない。それこそ博物館に並んでいるような代物である。さすがに祖父が口を挟む。
「おい奈代、いくらなんでもそれは」
「手に入れて、頂きたいのです」
きっぱりと言い切った。私はこれまで彼女はちょっとバカだと思っていたが、誤解だった。完璧なバカだった。
解散した後に、祖父がため息混じりに言った。
「できそうもないことばかりを言って、どういうつもりなんだ」
彼女はケロリとしている。
「そんなに難しいことでしょうか?」
祖父の一層深い溜息が聞こえた。
それから一ヶ月経ち二ヶ月経ち、三ヶ月経った頃、ようやく一人が顔を出した。開口一番に
「奈代さん、申し訳ありません。私には無理です」
「そうですか。あなたで最後だったのですが、残念です。他の方はお手紙で無理だとご連絡を頂きました」
肩を落として帰っていく姿が見える。私は気の毒に思ったが、願ってもいないことだと思った。
その後、再び祖父が再び倒れるまでは。
祖父は意識を失い、緊急入院となった。彼女は大学を休み、生と死の境をさまよう祖父に付きっ切りだった。私も毎日見舞いに行き、何度も祖父に呼びかけたが、返事が帰ってくることはなかった。病室で彼女と色々な事を話した。祖父の家に来た時のこと、竹林で私を見つけた時のこと、マウンテンバイクでぶっ飛んだこと、初めてバイクに乗った時のこと、話は尽きなかった。そして、話が尽きることを恐れていた。彼女にとって祖父は親も同然である。何か話して気を紛らわせたい、彼女の取り留めのない話の裏には、そういう意図があるようにも感じられた。
そしていよいよ大変だとなった時に浮かび上がるのは相続問題である。子供は私の母と、もう一人叔父がいる。この二人だけならば問題にはならなかった。二人共、それなりの家庭と蓄えを築いているし、これ以上足すところもなければ引くところもない生活に満足していた。むしろ二人は彼女を心配していた。天涯孤独になってしまうのはあまりに忍びない。どちらかの家庭に入れようか、それとも祖父の遺産を相続させて自立させたほうが新たな出会いを見つけて幸せになれるのだろうか、私にも意見を求められたが、何も言えなかった。ここで私が一緒に暮らそうと言うのは卑怯な気がした。これまでに四人の男たちが無理な条件に挑み、敗北したのを間近で見ている。義理立てる訳ではない。同じ人を好きになった人情と言ったほうが近いのかもしれない。
こうなると騒ぐのは遠縁の者だ。これまで祖父を毛嫌いしていた様な人間ですら「血の繋がりもないような人間が財産を相続するとは何事か、それならば自分たちにも遺産を寄越せ」と乗り込んでくるのだから質が悪い。更に質が悪いのは祖父の病室に上がり込んで、彼女が見ている前で私の母や叔父に食って掛かることだ。叔父が激怒して病室から叩き出したが、彼女の表情は暗く沈んでいた。
ある夜、病院を訪れると彼女が真っ暗な病室の窓から月を見上げていた。三日月のように照らされた横顔は、濡れているように反射していた。いや、本当に濡れていたのかもしれない。涙の跡が見えた気がしたが、私はなるべく明るい声で話しかける。
「なんで電気をつけていないんだよ」
はっとして彼女がこちらを向き、答えた。
「だって、おじいちゃんが眩しそうだったから」
壁のスイッチで電気をつけると、確かに祖父はほんの僅かに眉間に皺を寄せ、眩しそうに見えた。
「ああ、確かにこりゃ眩しそうだな。消しておくか」
私は電気を消し、椅子に腰掛ける。彼女はまた外を見ている。無言の時間が流れる。
「おじいちゃんが死んじゃったら、私、どうしよう」
彼女は小さく呟いた。私は何も言えず、黙って俯いていた。彼女は続ける。
「本当はね、前の男の人達と結婚するのも悪くないって思っていたの」
「じゃあなんであんな無茶なこと言ったんだよ」
「欲しかったのよ、本当に。結婚するのもいいと思ったけど、そしたらこの先の私の人生はある程度決まってしまうでしょ。そこまで考えた時、なんだか急にどうでもよくなっちゃった。とにかく速くて、くだらない現実なんか追いついて来られない物が欲しかったのよ」
自嘲的な溜息が聞こえた。
「でも、無理なのかな。だって現実は化け物みたいなスピードで追いかけてくるんだもの。タケと病室で昔の話をしたでしょう。昔って不思議ね。その時はスピードなんて感じないのに、振り返るとすぐそこにいるの」
「過去がどんなに速くても自分を追い抜くことはできないよ」
きょとんとした彼女は一拍おいてクスっと笑った。
「そうね。まるで影みたい」
面会時間の終了が近づき、彼女と共に病室を出た。
「おじいちゃん、明日も来るからね」
彼女は返事のない祖父に呼びかけた。それぞれが駐車場に停まっているバイクに跨り、暖機運転をする。
「ねえ、タケ」
アイドリングの音に混じって彼女の声がする。
「もしも…」
彼女の言葉を待ったが、その先は聞けなかった。
「なんでもない!またね!」
彼女はエンジンを二度吹かすと、夜の闇に消えていった。化け物から逃げるように。彼女は知らない。私が持っている化け物を。
それが手に入ったのは偶然だった。彼女より大きなスズキのバイクは、祖父の持ち物にあった。私がバイクに乗り始めた時、祖父と二人で話をした。二人で盛り上がった頃に、祖父が小さい声で私に言った。
「儂の別荘にガレージがある。そこは死んだ婆さんも入れなかった、儂のおもちゃ箱みたいなもんじゃ。そこに、一台のポンコツが置いてある。直すなら、お前にやる」
ガレージの鍵を私に手渡した祖父はニヤッと笑った。
私は翌日の朝早くに出かけた。その別荘まではバイクで一時間、確か私の知っている別荘は他にも三つあったはずだ。どれだけ家があるんだとヘルメットの中で苦笑いしながらもその場所に行き、ガレージを開けた。埃が舞い、視界を遮る。咳き込みながらも辺りを見回すと、普通の車なら余裕を持って四台ほど止められそうな空間が広がっていた。本当にポンコツとしか言えない物がいくつも転がっている。天井からは年式のよくわからない飛行機のプラモデルが釣ってあるし、床に落ちてしまっている物もある。壁には雑誌の切り抜きや外国のポスターが貼ってある。古い自転車にバイク、古い車も一台置いてある。車の隣にカバーの掛かったバイクがあった。鈍色のカバーをめくると、祖父がニヤリと笑った意味がわかった。私もその時、きっと同じ顔をしただろう。
それからはアルバイトをこなし、給料は修理代に充てた。手に入らないパーツもあったが、ワンオフ(オーダー品)で作ってもらった。高く付いたが、買う事を考えれば間違いなく安い。そのバイクの走行距離計は五百キロメートルを指していた。まだほとんど新車である。こんなものを店で探せば数百万は下らないだろう。そして修理を始めて一年が経った今、そのバイクは完璧な姿を取り戻し、ガレージのカバーの下で息を潜めている。
抜けるような青空だった。黒い服に身を包んだ彼女は、育ての親である祖父の写真を持っている。時折吹く冷たい風が、季節の移り変わりを告げる。彼女は泣いていた。私も泣いていた。様態が急変したのは私達が帰ってすぐのことだった。連絡を受けてすぐに病院に戻った私達は、病室の外で祈ることしかできなかった。やがて医師が病室から顔を出し、私達を入れた。もう駄目なのだ。豪快で優しい祖父は、もう死んでしまうのだ。今まで心のどこかできっと治ると思っていた。そう信じていたし、またそのようにしか接してこなかった。後悔が涙となって流れ出る。手を握って呼んでも、まったく反応がない。私が右手、彼女は左手を握っていた。心電図が反応を鈍らせる。彼女はぎゅっと目を閉じて両手で握った祖父の手を眉間に当てている。私はそのいじらしい姿をみてたまらなくなり、大声で祖父を呼んだ。その時、握っていた手が私の手を握り返した。驚いて祖父の顔を見ると、少しだけ微笑んだように見えた。そして、それっきり祖父は動かなくなった。
四十九日法要が終わった日の夜、私は彼女と例の別荘にいた。ガレージではなく、家の方に入り途中で買ってきた温い缶コーヒーを飲んでいた。電気は付けていない。煌々と照る満月が、窓から私達を照らしている。映画のワンシーンのようだ。青白い照明を当てられた女優が、悲しみを演じているように見える。本当に映画であればよかったのに。祖父の死も、彼女の悲しみも、全てが演技であればよかったのに。
沈黙を保っていた彼女は唐突に言った。
「今日、親戚の人が来たよ。血の繋がりもない人間が財産を相続するなんて!って病院で騒いでた人たち。私におじいちゃんの家から出て行けって」
私は思わず立ち上がり、大きな声を出す。
「なんだって!そんな必要なんてない!」
弱々しく笑った彼女が私をなだめる。
「わかってるよ。でも、なんだか疲れちゃった」
埃を払っただけのテーブルに頬杖をついた彼女は、窓の外を見る。
「人が死んだことも過去っていう影になっちゃうのかな。きっと、その影に追いつかれた人が取り憑かれて死んじゃうんだろうね」
ふと思う。私は、この時のために一年を費やしたのかもしれない。祖父にはわかっていたのかもしれない。私は立ち上がり、彼女に背を向ける。
「ついてきて。あげるよ。影が追いつけないくらい速いもの」
ガレージの鍵を開け、壁のスイッチを押すといくつもの白熱灯がガラクタを照らす。彼女を鈍色のカバーの掛かったバイクの前に連れて行く。
「本当は自分で乗るつもりだったけど、あげるよ」
「なに?バイク?」
彼女は怪訝そうな顔をしている。一気にカバーをめくると、その表情は驚愕に変わった。
「タケ、これって」
「RG500ガンマ、ウォルターウルフだよ」
黒い車体に引かれた赤と金のラインに四本のチャンバー、たった160キロほどの車体に95psのパワーを有し、最高速度は230km/hに迫る。今の大型マシンと比べると見劣りしてしまう部分はあるが、乗り物はスペックだけでは語れない。彼女の見かけが美人だろうと、決して淑やかではないのと同じかもしれない。Walter Wolfの金文字が入れられた上品なカラーリングも、走りだせばじゃじゃ馬だ。今更ながら彼女にぴったりだと思った。
「本当に、いいの?」
私は黙って笑ってみせた。
ガレージから出し、スペアキーが付いたままのキーを回すと電気系統が血液のように車体に行き渡る。キックペダルを踏むと何かが爆発したような音と共にエンジンが動き出した。アクセルを吹かすと真っ白な煙が周囲を覆う。
ヘルメットを被った彼女はそれにまたがり、メーターを覗きこんだりブレーキを確認したりしている。
「これ、まだ五百キロしか走ってないの!?」
「そうさ。このバイクは年代ものだけど、新車同様だよ。まだ過去にしちゃいけない」
彼女はメーターを見たまま固まっていた。やがて私に向かって大きな声をあげた。
「私のバイク、タケが乗ってよ!」
「ありがとう、乗るよ」
何故だか、自然にそう言えた。
「私、しばらく帰ってこないよ!影を振り切れるまで、これでぶっちぎるまで!」
急な事だったが、私は昔からわかっていたような気がした。
「あと、これをタケに預けておくから!」
彼女が投げてよこしたのは、ガンマのスペアキーだった。
「他のスペアは作らないから、絶対に、絶対になくさないでね!」
彼女がアクセルをねじ切れんばかりに開けると、ガンマは稲妻の様な雄叫びを上げる。
「じゃあね、タケ。元気で!」
若干ぎこちなく繋がったクラッチが動力をタイヤに伝える。滑るように走りだしたガンマは白煙を残し、みるみるスピードを上げて夜の闇に消えていった。
まだツーストロークエンジンの甲高い排気音が遠くに聞こえる。私は手の中に残ったガンマのスペアキーと、彼女のものだったGSX-Rのキーを握りしめて空を見上げた。
空には、何も知らないような顔をした満月が浮かんでいた。